奇想、天を動かす 〜1989.9


光文社カッパ・ノベルス(1989.9)
光文社文庫(1993.3)
平成15年5月28日

格と社会派の融合。

 の老人が殺人に及んだ動機は、なんともチンケなものであるように思われた。浅草の仲見世通りの乾物屋で、彼はピーナツやあられが入った四百円ほどの袋菓子を買い、十二円の消費税を払わずに店を後にした。浮浪者であるらしい彼には施行されたばかりの税制が理解出来なかったのかもしれない。そう思った店主は老人を追い、そして彼は食い下がってきた店主を往来のど真ん中で刺し殺したのである。
老人はすぐに捕らえられ、警察へと連行された。この事件を担当する事になった刑事の吉敷は、老人に仔細を質そうとするが、彼は呆けたように笑うばかりで名さえも答えない。
聞き込みの結果、この老人は行川郁夫という名で家族がなく、一年半ほど前に刑務所を出所したという事が判った。しかも幼児誘拐殺人という重罪で二十六年もの期間を方々の刑務所で過ごしていたという。
警察はこの時点で事件への興味を完全に失った。それは行川が口も利けない痴呆の様な男であり、職を持たない浮浪者でもあって、しかも犯罪暦までがあったということであるなら、今回の殺人も突発的な意味の無いものに違いないという判断をしたからである。情状酌量の余地は何処にも無く、またそんな気をつかう相手でも無い――と。
しかし吉敷は老人の表情の影に、何か途方も無い悲劇が潜んでいるような気がしてならなかった。行川が女を殺したのは厳然たる事実である。いまさら捜査をしたところで、何かが変わるわけでは無いのかもしれない。しかしそれでも真実を知りたいと感じずには居れなかったのだ。
本当に行川と被害者の桜井佳子との関係は何も無かったのか、行川が過去に犯したという誘拐事件はどんなものだったのか、そして事件には隠された殺意があったのではないのか。
吉敷は地を走り、時を遡って、やがて北国で不可思議でかつ衝撃的な事件に出会う。全てはそこから始まっていた――。


 『想、天を動かす』に対して最も多く聞かれる評価は、本格と社会派の融合が高度な結実を見せている傑作だというものだ。それは確かにその通りであるだろう。また、当《吉敷シリーズ》の目的がそこにあったとして、本作をその頂点に置く見かたもあるようだ。それもその通りかもしれない。
しかし本作を語るにはもっと多くの言葉が必要であるように思う。

再逆転の時代

 この「本格と社会派の融合」というテーマは、著者が挑む以前からあったものであり、その事自体は特に珍しいことではない。「本格」という原体験を持って作家になり、自身も同じようにトリック主体のミステリを書こうという時になって、世の流れが社会派主流になっており、もはや望みが叶わないことに気がついた――この悲劇に遭遇した者は、みな同じような宿願を持った。すなわち、外面は社会派として時流に即した形を持ち、内面も物語的な充実と、ミステリとしての論理性が助け合い、知と情を併せ持った小説が書けないだろうか?――と。
高木彬光しかり、鮎川哲也しかり、土屋隆夫しかり、森村誠一しかり。この命題に挑戦した者は数多くいた。島田荘司もまた、そうした作家の一人である。
何度も繰り返すようだが、著者はデビュー当時、本格推理を標榜した『占星術殺人事件』を世に問い、やはり社会派主流の時流に即していないとして評価されなかった。(具体的に言うと「動機が弱い」という評がそれにあたる)
そこで著者は本格を明示的に掲げることをやめ、『占星術』『斜め屋敷』で主人公に据えた名探偵の御手洗潔を一度封印し、平凡な刑事を主人公とする《吉敷シリーズ》をスタートさせた。これにより社会派という時流にのり、その上でその内実に「本格」としての完成を求めていくことにしたのである。
シリーズ第一作の『寝台特急「はやぶさ」1/60秒の壁』は典型的なトラベルミステリとして、スイッチしたことを明らかにするだけの作品であったが、続く『出雲伝説7/8の殺人』の伝承を絡めた見立て殺人や、『北の夕鶴2/3の殺人』の「不可能犯罪」のように、トリックや幻想へのこだわりを明確に打ち出した。
私が思うに、こうした路線の完成形は、『Yの構図』や『灰の迷宮』あたりで、これこそが当初考えていただろう理想なのではないか。とくに社会性という点においてこの二作の充実はすばらしく、しかもトリックが忘れ去られていない。
しかしちょうどその頃、著者はまたしても皮肉な時代の移り変わりを目にする。それは綾辻行人や有栖川有栖、二階堂黎人などによる新しいムーヴ「新本格推理」の誕生とその台頭である。松本清張以来、人気を得てきた「社会派」がついに勢いを失い、「本格」が復権したのだ。皮肉なことにかつて本格ではなく社会派を求められた著者は、こんどはその完成とともに再び時代とすれ違ってしまったのである。
そこで著者は新しい動きを見せた。いや、見せざるを得なかった。著者は封印していた御手洗潔を復活させて明示的な本格推理作品を世に問い、新本格の新人たちを後押しし、『本格ミステリー宣言』なる評論集でスタンスを明確にしたのだ。
《御手洗》を中心にみれば、著者は原点に帰っただけであり、もともと「本格」の徒であったわけで、時代こそが彼に追いついたと言ってもいい状況であるかもしれない。しかし、その中で《吉敷シリーズ》の役目は、ある意味では終ってしまっていた。刑事より名探偵の方が受けもいいという再逆転の中で、内面が本格であるのに社会派を標榜する意味がどこにあるのか。
実際、これ以降の時期、著者は復活させた《御手洗シリーズ》に注力するようになり、『異邦の騎士』や『暗闇坂の人喰いの木』『眩暈』『アトポス』などの大作が次々と書かれ、一方の《吉敷シリーズ》はやや扱いも変化し、それまでの勢いを失っていった。(変化の形については『羽衣伝説の記憶』で触れる)

『奇想、天を動かす』はそうした狭間の時期に書かれた作品で、まあ仇花と言ってもいいだろう。しかし、結果としては著者の葛藤がいい形で高い結実を果たした奇跡的な傑作になっている。
前述の通り、ここには著者がシリーズに託した基本理念「社会派と本格の融合」がある。表題が言い表しているように、「天を動かす」ような途轍もない「奇想」が謎として示され、その幻想性はこれぞ本格と言いたくなるものであるのに、犯罪の背後にあるテーマの描き方には社会派的な視点と追求があり、ドラマも深く掘り下げられている。
興味深いのは、総体としては以前の同シリーズ作品よりずっと本格にシフトしたものになっていることだ。つまり「社会派めかした本格」というやや身分詐称に近いものではなく、はっきりと両者を同列に扱い、融合を明確に打ち出しているのである。
著者はシリーズの存在意義が揺らいでいる今だからこそ、その融合にこだわりを見せたのだろう。つまり、たとえ再び本格が主流になろうとも、自分がしてきたアプローチがまったく無意味になったとは思いたくない。いや、そう終わらせてなるものか――と。
島田はこの時期、新本格を強力に後押ししながら、自身は「自分は社会派宣言する」とまで言ったこともあったが、それは「社会派で無ければだめだ」という声に応え、跳ね返してきた自分に対する自信と、そのスタンスを捨てずに貫いていくという責任の自覚だったのだろう。(もちろん島田のスタンスは複数あり、だからこそ《御手洗シリーズ》のような本格そのものも書いていたわけだ)
本作における「社会派と本格の融合」はそうしたいくつかのアンビヴァレンツの中で生まれた特別な作品だ。以前のように社会派を装うなら、多分このような大仰な表題は与えられていなかっただろう。
そうした意味で、本作がシリーズの頂点であるというのは完成度からすれば十分に頷けるものだが、私にはこれがシリーズ本来の形とは思えないので、その代表するものとして置くのはやや躊躇われる。また、読者はこれ以前の著者の姿を見た後で本書を手にとって欲しいとも思い、その意味でもこれを真っ先に推したくは無い。

江戸川乱歩

 本作には通常なら社会派推理とは相容れないはずの江戸川乱歩的な趣向が盛り込まれている。それは冒頭にも掲載され、現実の事件を追う吉敷の物語の間にも挟みこまれる不思議な幻想小説であり、これが進行と共に徐々に事件を解く鍵としてその全貌を現していく。
このどこか物悲しい説話体の小説は、冒頭の事件後すぐに捕まった犯人行川郁夫が、以前獄中で書いた小説であるという。作中にも江戸川乱歩風と書かれているが、たしかにサーカスの中でいじめられるピエロの話は『踊る一寸法師』に極めて似ているし、「白い巨人」は『黄金仮面』の中に出てくる「白き巨人」を思わせる。
乱歩と言えば古典的探偵小説そのものでもあり、イメージ的には社会派ともっとも遠い場所にあるものと言えるかも知れない。しかし本格推理を原点に持つ著者はこれまでも乱歩を採り上げていた。たとえば『D坂の密室殺人』のような短編では、その作風を意識したものを書いているし、同時期の長編『網走発遥かなり』は、乱歩自身に対する関心や研究を織り交ぜたものになっていた。他でも怪奇や幻想の要素が作品に絡むと横溝や乱歩の匂いが感じられる部分は多々あった。著者にとり、かように乱歩の存在は特別なものであったに違いない。
しかし、それを社会派を標榜したシリーズの中に投入するのは著者としても異例のことであり、つまりこのハイブリッド構造は本格と社会派を同列に押し出した構造上の特質そのものと言える。


幻想的な謎

 乱歩風の部分は社会派としては風変わりだが、前半部だけならそれも趣向の一つに過ぎず、メインの骨格は純然たる社会派推理といえなくもない。犯人の動機を探っていく捜査は謎解きというより、ドラマを掘り起こしていく行為に近く、それが社会的なテーマに繋がっていくとなれば、ジャンルの王道そのものであるからだ。
しかし、後半に入ると、物語はがらりと趣を変え、これぞ本格ミステリと言える「幻想的な謎」が登場してくる。それがつまり乱歩風の小説の中に隠されていた四十年前の事件である。過去の事件が解決することで現在の事件が解けるという構造、そして現在が社会派的で、過去が本格推理的という二重性は『夜は千の鈴を鳴らす』によく似ている。
どうみても幻覚としかいえないような手記の内容が、もし本当にあったとしたら?いや、あったとしなければ事件は解決しないのである。不可能性の高い犯罪が怪奇や幻想でくるまれて語られるという趣向はディクスン・カーなどとも通じるものであり、これを本格と言わずして何と言う。著者は評論『本格ミステリー宣言』でこうした幻想を感じさせる謎の提示が本格には欠かせないものとしている。本作はそれを実践したものといってもよく、この部分だけ取り出すなら、本作はまさしく本格を目指して作り出されたものということになる。
この幻想としか思えない矛盾を含む手記を、本当にあったこととして解いていく趣向は、島田のオリジナルではなく、元からあった趣向だ。そのはじまりが何処であるのかは知らないが、江戸川乱歩の『孤島の鬼』に登場する手記なども同じような機能を持った部分がある。この頃で言えば連城三紀彦の『戻り川心中』、泡坂妻夫の『迷蝶の島』など、フランスミステリの流れを組む作品も思い浮かぶ。
著者は後に『眩暈』などでこの趣向を突き詰めているが、これは『孤島の鬼』によく似ていた。本作だけ見ればとくに乱歩風な謎の提示とも思わないが、『眩暈』を加えた上で考えると、関連があったということになるのかもしれない。

社会派としての側面

 本作には社会派小説としての骨太なテーゼが含まれている。これをネタバレの項でくくる必要性があるのは、つまりこここそが物語の核心であるからだ。
それは行川郁夫の悲劇的な半生からくるドラマである。犯人の行川は呂泰永という名の在日韓国人であり、であるがゆえに戦中戦後という時代の中で、日本という組織全体からいわれなき迫害を受けた。そして彼は冤罪を受けて人生の大半を奪われたのである。
乾物屋の店主桜井佳子はかつて老人が若かりし日に彼を裏切った女であり、ひょっとするとこれを殺すことで老人は人生すべての恨みを、日本という社会全体に対する怒りを晴らそうとしたのかもしれない。つまらない突発的な殺人と見えた事件は、老人が命を賭して放った怒りの声であったのだ。
冤罪自体は単なる誤りでしかない。その罪を当時、事件を扱った便山警部に帰することも出来るものかもしれない。しかし著者は警察の組織に冤罪を生みやすい構造があることを指摘し、しかもそれが日本人特有の体質に起因するということにまで突き詰めていく。ここには他の作品にも顔を出す著者流の日本人論が展開されている。
吉敷は老人が恨んだ日本の警察組織に属している人間であり、つまり老人とは対立する立場にある。したがっていくら心情的にその苦しみを理解したつもりになっても、真にわが身のものとすることは出来ない。逆に言えば、あながえない罪を背負うことこそが吉敷の悲しみなのであろう。